今から約25年前、女性は結婚・出産したら退職、というのが当たり前の時代でした。でも、私のなかで、子どもを産んだからといって、仕事を辞めるという選択肢はありませんでした。実は第一子を妊娠したとき、検診に行ってそのまま即入院になってしまって。本当に突然のことだったので、上司が毎日病院まで仕事の段取りを聞きに来てくれ、「井上さんに辞められたら困るよ」とも言ってくれました。なので、上司にも同僚にも迷惑を掛けてしまったし、産後も絶対に仕事を続けて恩返しをしたいと思ったんです。
私の場合、以前は広告や情報誌などのライターをしていて、まったく異業種からの転職でした。年齢的にももう30代半ばでしたし、それまでいた世界とはあまりにも違ったので最初はカルチャーショックが大きく、やっぱり辞めようかと思ったくらいです(笑)。でも、みんなポンプの仕事にものすごく情熱とプライドをもってやっていて、熱くて、泥臭くて、カッコよくて。気がつくとポンプの仕事もこの会社もトリシマの人たちも、大好きになっていました。
―介護休業を取得されたきっかけを教えてください。
10年以上前のことですが、母が癌を患ったんです。闘病生活が始まった頃は、私が大阪勤務だったので、できる限り毎週末佐賀に帰省してお見舞いに行っていました。病気が進行して鎮痛剤を使うようになると、副作用で意識が朦朧として自分で身の回りのことができなくなるかもしれない、と主治医から言われました。それで家族で話し合って、私が病院に寝泊まりし、入院介護をすることになったんです。
私は約10年前、技能実習生としてトリシマの組立工作課BFP(火力発電所向け高圧多段ポンプ)グループで働いていました。当時からトリシマではお祈り場所や、昼食にムスリム食が用意され、私たちイスラム教徒にとっても働きやすかったです。なので、実習の3年間は何の不便もなく、楽しかったです。また、その頃はリーマンショックの影響で倒産する会社もあるなか、自分に働く場所をくれたトリシマに感謝の気持ちでいっぱいでした。実習後に故郷のインドネシアにあるトリシマの子会社で働いたのも、会社を支えて恩返しをしたいと強く思ったからでした。
私が初めて来日したのは、故郷フィリピンにある日系の自動車メーカーで働いていた時です。会社の研修で数ヶ月の滞在だったのですが、空気がきれいで街は静か、人が優しく住みやすそうな国だと感じました。その頃から日本で働きたいと思うようになり、10年後に日本で働くチャンスがめぐってきました。でも当時子どもがまだ2歳。本当に悩みましたが、母が「自分で決めたなら行きなさい」と背中を押してくれ、そして何より、子どもには将来日本人の精神や礼儀作法を身に着けて欲しかったので、日本で働くことを決心しました。“Greener Pastures(より良い環境)”を求めてのことだったんです。
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